ゴスペルの基礎知識 (このページは編集段階です。完成には相当な時間がかかります。)
日本ではゴスペルといえばW・ゴールドバーグ主演の「天使にラブ・ソングを2」を思い浮かべる人が多いと思われます。
この映画を観て、「自分も何かに打ち込みたい」「この生徒たちのような感動を味わいたい」と感じた多くの人が、
巷のゴスペル教室の門を叩いて、日本にゴスペル・ブームを巻き起こしました。
しかし大手の音楽教室の多くはゴスペルを一つの音楽のジャンルとしてしか捉えておらず、
またグループ・レッスンができる効率のよさから安易に専門の講師ではない単なるヴォーカル担当講師や
ジャズ・シンガーに兼任させており、きちんとゴスペルというものがどういうものかを教え切れていないのが実情です。
ですのでこのページでは、信頼できる参考文献やウェブサイトなどの情報や、BEE芦原が今までいろんな人から
教えてもらった知識を総動員して、ゴスペルの意味や、メッセージの背景などをご説明していきたいと思います。
みなさんのゴスペル活動のお役に少しでも立てればと思っていますので、ご活用下さい。
セリにかけられる黒人奴隷
綿農場の強制労働
三ヶ月に及ぶ航海で「商品」としての質を保つため
甲板に定期的に出され日光浴をさせられる奴隷
ブラック・ゴスペル(黒人教会音楽)の誕生に必要不可欠だった2つの前提がある。
1つはアフリカにいた黒人たちが強制的に奴隷として北米に連れてこられ、独自の文化が出来た事。
そしてもう1つは彼らアフロ・アメリカンがキリスト教信仰を持った事である。
<奴隷貿易>
大西洋の奴隷貿易は、16世紀にスペインによって始められた。
西ヨーロッパの安物の綿製品、真鍮の腕輪などの金属製品・アクセサリ、ジンなどの酒類、鉄砲
そして現地では通貨だった子安貝などを積んだ船がアフリカ西海岸でそれらを奴隷と交換する。
代わりに奴隷を積んだ船は西インド諸島やアメリカ大陸へ渡り、そこで、積んできた奴隷との
交易によって砂糖や綿花やタバコを手に入れ、それらの商品を積んで、
西ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため三角貿易と呼ばれた。
17世紀にはスペイン・ポルトガルに代わって、イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、
18世紀からは、産業革命をいち早く迎えたイギリスが、海上覇権をオランダから奪い、
イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えた。
アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人たちは、
300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って巨利をむさぼった。
この奴隷貿易は19世紀まで続いた。
イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、
アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年であった。
奴隷貿易には、ヨーロッパ文明諸国のほとんどが手を染めていた。
そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。
<キリスト教への改宗>
記録によるとはじめて北アメリカに黒人が奴隷として連れてこられたのは1620年とされる。
彼らは自由も人権も奪われ、生まれた子供でさえ取り上げられて、また奴隷として
売買されるという劣悪な環境の中でも、なんとか彼ら自身の文化を維持しようとした。
白人の奴隷主に対して従順で反抗しないものは「サンボ」、武装蜂起や反抗をするものは
「ナット・ターナー」と区別され、ナット・ターナーは見せしめとして首を刈られ殺された。
これは彼らが「死んだら故郷に帰ることが出来る」という考えを持っていたことに対して、
「死んでも首は持って帰られない」ということを教え、死を決することを考えさせないための
白人の措置だとされた。
白人は奴隷制度に対して良心の呵責がまったくなかったわけではない。
だからこそ奴隷の黒人を「無知で文明を知らない子供のようなもの」として捉えたがる風潮があり、
「部族間の争いが多発し、多くの命が奪われるアフリカにいるより、奴隷としてアメリカにいるほうが
衣食住の心配も無く、西欧文明にも触れられて彼らにとっても幸せだ」という考えがあった。
そのような経緯からバプティスト派、メソジスト派のプロテスタントの間で、黒人たちにも
キリスト教や聖書を教えるようになった。
しかし内実としては、黒人奴隷の生活習慣の違いや、土着の信仰からくる思想の違いによる
管理のしにくさから、より従順な奴隷に教育するためにキリスト教化した場合も少なくなかった。
いずれにせよ、絶望的な状況の中を生きる黒人奴隷たちにとって、「神は全てを愛する」という
思想と「天国」「神の国」という概念は精神的な拠り所となり、キリスト教は深く浸透した。
<ニグロ・スピリチュアルズの誕生>
白人による管理上の都合から、強制的にキリスト教に改宗させられた黒人奴隷だったが、
現世にも来世にも絶望感しかなかった彼らには、キリスト教は唯一の光となった。
黒人奴隷の武装蜂起や反乱を恐れた白人社会は、黒人奴隷の集会を認めようとはしなかったが
18世紀後半から19世紀にかけて、少しずつ秘密裏に黒人による集会は増えていった。
日々の過酷な労働を終えた彼らにとって、ひそかに行なわれる黒人だけの集会は楽しみでもあり、
その中で牧師によって語られる聖書の物語は、彼らがつらくとも明日を迎える大きな理由となる。
ニグロ・スピリチュアルズ(黒人霊歌)が生まれた背景には2つの理由があった。
綿やサトウキビのプランテーションで、彼らは白人にはわからない独自の方法で集会の
連絡を取り合う必要があった。その手法として「歌」を用いたといわれている。
またほとんどの黒人奴隷の第一世代、第二世代あたりまでは文字が読めなかった。
そのため牧師や伝道者は。旧約聖書のモーゼの物語などを簡単な歌詞に代え曲に仕上げた。
それを森の中で行なわれる礼拝式の中で歌うようになり、数々の黒人霊歌が生まれた。
のちに黒人奴隷にも集会が許されるようになり、彼ら独自の音楽文化に西欧の賛美歌が入り、
独特のキリスト教音楽が誕生する事になる。アメイジング・グレースなども、もともとは西欧の
賛美歌の1つだったが、黒人奴隷の郷愁の想いが宿り、いまも歌い継がれている。
ゴスペルの父 トーマス・A・ドーシー